そうじるし通信[2]
明日また空豆の殻を剥くだろう同じ力をかけた右手で - 中澤 系 ―
「ほうき」は単なる「掃除道具」ではありません。
「ほうき」は神事を司る「祭礼道具」としての意味合いも多く含んでいます。
で、「神事」ってよーするになんなん・・・ってなハナシになるのですが、「神事」とは結局のトコロ、
- 無病息災(健康第一)
- 家内安全(健やかな人間関係)
- 五穀豊穣(腹いっぱい)
- 安産祈願(子どもの笑顔)
これらを願い、思い、成就するための「儀式」である!と、別に神主でもなんでもない超・ド素人の組合員が、ココは思い切って断言しよう・笑
「病院・学校・自動車・気象衛星・天気予報・化学肥料・工業機械・電気・ガス・水道・石油・ネット・AI・その他諸々テクノロジー」が「無い」世界に、前述したような「安全・安心」な暮らしを希求し、願うことは、今では想像できないほどの「切実さ」に溢れていたに違いありません。
毎日を安心して暮らす・・・そのことがどれほど貴重で、ありがたい(有り難い)ことか、文字通り「身に染みていた」のだと思います。言い方を変えると、「できること・できないこと」へのまなざし・コントラストがはっきりしていた時代だったんだろうな、と。
その「できること」の、ひとつの切実かつ誠意ある行為として「掃き・清め・祈る」という日本的な気質・習質、そして「慣習(もしくは祭り)」が生まれ綿々と続いてきたのである・・・と、思い切ってココも断言・笑
目障りなモノ・状態を(ようするにゴミ認定して)排除・移動させて「ハイ終了」ではなく、己自身が「できること」として、そして「安寧な日々」を実現化させる行為として「掃除」があり、道具として「ほうき」がある。故に「祭礼道具」としての側面が「ほうき」に託された・・・と、超・ゴーインにココも断言・笑
私事ではありますが、今回の九州の洪水被害で、ワタクシの母方の実家の、ある温泉街が甚大な被害を被りました(幼少期の多くの時間をそこで過ごし、その記憶と共に、とても思い入れのある場所です)。
それらをもたらす自然と、己自身の無力さを自覚し・反芻し、またワタクシも「掃除」という行為を通し「払い(祓い)・清める」ことで、当たり前の日常・生活を送ることの「ありがたさ(有り難さ)」を噛みしめていきたいと、改めて思い至った次第です(被害を被った方々に、心よりお見舞い申し上げます)。
だから「掛け箒」を買うように→断言。
ではでは。
(強引さが売りの組合員・J)